亡き人の手習ひ、繪かきすさびたる見出でたるこそ、たゞその折の心地すれ

・・・日本文学研究の第一人者で米国コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさん(89)が11日、平泉町中尊寺本堂で講話した。金色堂を初めて見たときの感動や「平泉の文化遺産」が国連教育科学文化機関(ユネスコ世界遺産登録された喜び、日本の優れた点などを述べて「日本人と共に生き、日本人として死にたい」と帰化への思いを語った。キーンさんの真摯(しんし)な姿は来場者に大きな感銘を与えた。

同寺の東日本大震災犠牲者慰霊法要後、約200人の来場者を前にキーンさんは、松尾芭蕉が「奥の細道」で歩いた道のりをたどり、56年前に初めて金色堂を見たときの感動を「ここが極楽だと思った」と表現し、「平泉の世界遺産」が世界遺産登録されたことを「日本人の誇り。待ちに待った登録だったが本当に良かった」と喜んだ。

今回の帰化について高見順が「日本人の戦争」で記した戦争の最も大変な時期に上野駅で見た、多くの人が静かに列車を待ち、列を乱して先に乗ろうとする人のいない−との一文を引き合いに出し「私はこういう人たちと生き、こういう人たちと死んでいきたい」と心情を吐露。

「現在、多くの人に感謝されるが、私がやりたくないことをやってきたなら(感謝を)受け取るが、1番やりたいことをやってきたので私の方から皆さんに感謝したい」と述べ、「中尊寺を参詣してから1日も日本を考えない日はない。私は日本と日本人に特別な縁がある。死ぬまで日本文学を研究し続ける」と思いを語った。(中略)

講話終了後に応じた会見では、東日本大震災に触れ「テレビで見た津波がとても恐ろしかった。でも海外では今までなかった日本人を尊敬する空気が強くなってきている。震災に遭っても相手の心を思いやり秩序ある態度に感銘したためだ」とした上で「私は終戦直後に廃虚の東京を訪れて『復興はあり得ない』と思った。しかし、日本人は見事に復興を成し遂げた。東北でもできると信じている」と力を込めた・・・

岩手日日新聞(2011年9月12日付)より引用
http://www.iwanichi.co.jp/ichinoseki/item_25770.html


【関連記事】
河北新報(2011年9月13日)http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110913t35009.htm




*「亡き人の手習ひ、繪かきすさびたる見出でたるこそ、たゞその折の心地すれ」という兼好法師のことばを引いたドナルド・キーン氏の20年前の文章がありますのでご紹介します。

ドナルド・キーン著「死を語る」より

・・・親しい人が亡くなると、私は誰にも負けないほど悲しくなり、何年経ってもその人を忘れることがない。死んだ友人の手紙をなかなか捨てられない。『徒然草』に「なき人の手ならひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ ただその折のここちすれ」と兼好法師が書いているが、私にも同様の体験が何回もあった。たんすの引き出しが古い手紙で一杯になっているが、手当たり次第一通ずつ取って見れば、たとえ差出人の名前を見なくてもだれが書いた字かすぐ思い出すことができる。そして古い手紙を読むと、兼好法師が書いているように、当時の心地がするものである。
そして私の場合、ものを書く人間であるから、昔の友人等について書くことも慰めになる。誰それという友人の話したこと、してくれたことを覚えているのは私だけだと思うと、是非何かの形で活かしていきたい。私は数々の人のご恩を受けたが、お墓に花を上げなくてもご恩を決して忘れず、いずれそのうち自分の感謝の気持ちを書くつもりである。又、実際に書いたこともある。
それでは私自身が死んだらどうなりたいか。おかしな告白になるが、六十七歳になっても私はあまり遠くない将来に死ぬという実感はまだない。若い人ならだれでもそうであろうが、自分の死を頭に描いたこともない。沖縄の激戦のときでも臆病者の私が平気で第一戦まで行って部下をびっくりさせた。それ以来、二、三回墜落しそうな飛行機に乗ったこともある。精密検査の結果に心配することもあったが、その度に別の私が怖がっている自分自身を見ているような気がしたものである、この「別の私」がどんなものか説明できないが、やはり何か決して死なないものが私の中にあると信じたいということではないかと思う。
日本語に「客死」という言葉があるが、自国から遠く離れて外国人に囲まれてわびしく死ぬというような余韻があるらしい。私は客死を恐れない。むしろ友人に迷惑をかけるより客死がいいかもしれない。が、二、三回大変美しい墓地を見た時、ここのお墓がいいと思ったことがある。例えば、三井寺の奥に在る明治時代の美術の専門家であったフェノローサのお墓の隣は悪くないだろう。あるいは津軽海峡を見下ろす石川啄木のお墓の隣もいいだろう。それとも(大変混んでいるが)高野山も日本文学者である私にふさわしいのではないかと思う。が、その墓に何も入っていなくてもいい。戦時中、何かの理由で戦死した兵隊の骨を拾えなかった時、白木の箱に本人が来たオーバーの灰などを入れたと聞いたことがある。私の場合、本や陶器などでもいい。しかし、必ずしも墓はいらない。私を覚えていてくれるような人があれば、何でもいい。ここで藤原俊成の歌を思い出す。

たれかまたはなたちばなに思ひ出でむわれも昔の人となりなば

(引用終わり)



吉田兼好著『徒然草』より第二十九段

靜かに思へば、よろづ過ぎにしかたの戀しさのみぞせむ方なき。

人しづまりて後、永き夜のすさびに、何となき具足とりしたゝめ、殘し置かじと思ふ反古など破りすつる中(うち)に、亡き人の手習ひ、繪かきすさびたる見出でたるこそ、たゞその折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折り、いつの年なりけむと思ふは、あはれなるぞかし。手なれし具足なども、心もなくてかはらず久しき、いと悲し。






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